. 蛇足)
この音頭が作られたのは1951年。戦後の新制中学校になって2代目校長、弥上秀雄氏が作詞された。
動機は、善通寺小唄を作曲した西脇稔和氏が大阪から来た際、拙宅(木村忠吉)に泊まり、その時、中学校に招かれ弥上校長との
出会があり「龍川村の歌を何かを…」と云うような話題で発展していった。
そして弥上校長の詞が出来上がると、急遽運動会に発表しようとなり 作曲は音楽担任教諭が付けたらしい。そしてオルガン伴奏
で音楽部(木村忠吉、白川多美子、田所勝子、他3名)の歌唱で発表となった。
途中歌唱する者がいなく途切れた時期もあったらしいが、婦人会が主催するようになってから運動会恒例踊り歌になった。
1993年、小学校創立百周年には記念事業実行委員会の企画でルーベル音工の協賛、木村忠吉採譜編曲で録音制作され総踊り
として盛大に行われた。
当時龍川村は3〜5反百姓が多く、どこも豊かではなく日の出から夜なべまで働くのが当たり前であった。なのに、この歌詞の
ように苦とは思わず長閑で、いい人ばかりで情緒があった。

【香川県仲多度郡龍川村(1945年頃)の集落概要〜】
1954年町村合併により現在(.香川県善通寺市。竜川地区)
終戦直後1945年)頃の記憶では、龍川村には3っつの大字で構成されていた。金蔵寺、原田、木徳。
その下に30〜50戸位の集落の子字で大字をなしていた。
▼ 金蔵寺(本村、下所、樫薮、西六条、東六条、川添、
▼ 原田 (四条、五条、土居、3分一,下所)
▼ 木徳 (東上代、西上代、室の辻,松浦、、中村)
▼ 戸数≒500世帯 小中学生徒数≒900名
▼ 役場と駐在交番はは原田に。郵便局は金蔵寺にひとつ。
▼ 駅=「国鉄土讃線」金蔵寺駅。 「参宮電鉄」 樫藪変電所前、金蔵寺立場、原田3分一 の3停車場があった。
▼ 病院=永井病院(金蔵寺) 田所医院(3分一) 伝染隔離病院(五条)
▼ その他=農業試験場、
◆金倉寺(76番所)、 ◆ 春日神社、 ◆ご詠歌堂本部、 ◆ 新羅神社(金蔵寺町)、◆新羅神社(木徳町)、
以下、思い出せば随時 追記の予定。
この音頭に関わる。竜川村のこと、運動会、踊りのこと等々。感想、情報がありましたらメールに書き込んでください。
by.木村忠吉[ペネ;晴岳](1952年卒業生) . . . 【メ−ルで…】
【龍川村懐古録、高木芳太郎著 参考】
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