4 その名ののこした木徳の枇杷はよ ヨイトサ 夏の水無し陽で熟れるソレ 娘二八は気で熟れる(※ …)
5 枇杷の花でもやっぱり花よヨイトサ わたしゃ木徳の村小町 まして十八香もござる(※ …)
6 今日もゆきます五条の橋をよヨイトナ 粋な蛇の目のあで姿 逢うてみたいと燕くらめ(※ …)7 せめて今宵は三日月さまによヨイトサ ほんにしみじみ六条橋掛けた想いをつなげたい(※ …)
8 原田の森にはカラスが巣くうよヨイトナ 娘二十歳のあの胸に なんの鳥かや巣をつくる(※ …)
11 つもる想いを参宮に乗せてよヨイトサ みやれふたりで金蔵寺 かけた願いはいつとどく(※ …)
12 吹くな西風 あの道池によ ヨイトサ 鴨が浮き寝の夢さます わたしゃひとり寝なお寒い(※ …) 13 田植えすげ笠龍川むすめよ ヨイトサ 歌もそろえば手もそろう嫁にほしいな紅だすき(※ …)14 岸の水藻は金倉川の 波にほだされちょいとなびく わたしゃあなたの気になびく(※ …)
15 人の情けが心にしみてよ ヨイトサ 野良の仕事も精がでる どうせ住むなら龍川で(※ …)
. 蛇足)
この音頭が作られたのは1951年。戦後の新制中学校になって2代目校長、弥上秀雄氏が作詞された。
動機は、善通寺小唄を作曲した西脇稔和氏が大阪から来た際、拙宅に泊まり、その時、弥上校長との出会があり「竜川村の歌も…」と云うような話題でもりあがり発展していったのだと思う。
そして弥上校長の詞が出来上がると、急遽運動会に発表しようと云うことになり 作曲は音楽担任教諭がされたと云われている。運動会にはオルガン伴奏で音楽部(木村忠吉、白川多美子、田所勝子、他3名)の歌唱で発表となった。
途中歌唱する者がいなく途切れた時期もあったらしいが、婦人会が主催するようになってから運動会恒例踊り歌になった。
1993年、小学校創立百周年には記念事業実行委員会の企画でルーベル音工の協賛、木村忠吉採譜編曲で録音制作され総踊りとして盛大に行われた。
当時龍川は3〜5反百姓が多く、どこも豊かではなく日の出から夜なべまで働くのが当たり前であった。
なのに、この歌詞のように苦とは思わず長閑で、いい人ばかりで情緒があった。
終戦直後1945年)頃の記憶では、龍川村には3っつの大字で構成されていた。金蔵寺、原田、木徳。
その下に30〜50戸位の集落の子字で大字をなしていた。この音頭に関わる。運動会のこと。踊りのこと等々。感想、情報があればメールに書き込んでください。